ラッコ毛皮の献上が生んだ松前藩の成立

歴史
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 松前藩は1604(慶長9)年に家康より松前慶広宛「徳川家康黒印状」が発給されたことにより成立したことはよく語られています。しかしながら、なぜ松前慶広が家康より「徳川家康黒印状」を受けることになるかの経緯についてはあまり記されている記事はありません。ここでは、その発給までに至るまでを含めて見てみたいと思います。

軍役奉公と献上品で秀吉に取り入る蠣崎氏

 上ノ国の勝山館館主であり、蠣崎氏当主でもある武田信広の息子・蠣崎光広は、1514(永正11)年に松前大館へ居を移します。松前守護職であった相原末胤(あいはらすえたね)氏の館である松前大館は、1513(永正10)年にアイヌの攻撃で落城していました。

蠣崎氏が松前大館へ入城

 光広はその空き城に息子義広とともに入城し、本州と蝦夷地を結ぶ重要な交易地である松前を略奪した。これにより、上ノ国時代に掌握していた日本海交易ルートに加え、ラッコ毛皮などの極上品が豊富に揃う太平洋交易ルートをも、蠣崎氏は手中に収めました。

 こうした状況を背景に蠣崎氏は、主君である出羽檜山の安東氏から、当初は渋っていた代官職(蝦夷島の支配権を持つ役職)への就任を、ついに認めせることに成功します。こうして、蠣崎氏は蝦夷地での支配権を着々と固めていきます。

蠣崎氏の中央への素早い対応

 と同時に、蠣崎氏は中央の動きにも素早い対応を見せます。1590(天正18)年に全国統一を成し遂げた豊臣秀吉に取り入ろうと、義広の孫である慶広(よしひろ)が、津軽で前田利家らと会談。同年には「狄之嶋主(てきのとうしゅ)」として京都で秀吉に謁見し、民部大輔(みんぶたいふ)に叙任されています。

 秀吉から叙任を受けた2ヶ月後、陸奥の国人衆が秀吉の検知や刀狩に従わず、一揆を起こします。秀吉が徳川家康などの諸大名に出兵を促したところ、蠣崎義広もすぐにアイヌ軍を率いて参陣。この出兵は秀吉への初の軍役奉公であり、アイヌを率いたのは、自らが蝦夷島の支配者であることを天下に示す意味がありました。

秀吉へのラッコ毛皮の献上

 さらに、秀吉が朝鮮侵略を開始すると、慶広は1593(文禄2)年に肥前名護屋に馳せ参じます。この時、蝦夷錦と呼ばれる道中服を身につけ参陣した慶広は、当時貴重品であったラッコ毛皮3枚を秀吉に献上しています。ラッコ毛皮は、蝦夷地・千島でとれる産物で最も価値のある品であり、秀吉を喜ばせるには充分でした。

家康の安堵で誕生した松前藩

 慶広は、かつて名護屋で秀吉に謁見した際に、徳川家康にも会っています。1596(慶長4)年に大阪城・西の丸で第2子忠広を伴い家康に拝謁し、臣下として従うことを表明します。この時、蠣崎姓を松前と改めたといいます。その後、関ヶ原の戦いを経て、1603(慶長8)年、家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、松前慶広も江戸に参勤し、家康の家臣となります。

松前慶広宛「徳川家康黒印状」の発給

 続いて1604(慶長9)年には、家康より松前慶広宛「徳川家康黒印状」が発給されました。この黒印状の内容は、以下の内容が記されています。

  • アイヌとの交易の権利を松前氏が独占すること
  • 蝦夷地への出入りや商売は松前氏の統制下に置くこと
  • アイヌ自身の往行の自由を認めること
  • アイヌに対する非法禁止

 これにより松前藩とアイヌの関係が規定され、幕府は松前藩がアイヌとの交易を独占することを公認します。秀吉に次いで家康からも安堵を受けたことで、近世大名としての松前藩主松前慶広が誕生したのです。

 この後、松前藩は和人の土地(和人地)とアイヌの土地(蝦夷地)を分け、和人が蝦夷地に定住することを禁じることになります。

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