コメに代わる収入源だった商場知行制と場所請負制

歴史
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 1582(天正10)年から始まった豊臣秀吉の検地で、大名の生産高をコメの収穫量で表す石高制が導入されます。江戸時代になると領主の軍役負担から換算される藩もあったが、石高のない大名・松前藩主は特殊な存在でした。

コメがとれない松前藩ゆえの制度

 江戸時代の諸藩は、コメの生産量を示す石高を幕府によって割り振られ、数万石の大名として幕藩体制の一躍を担っていました。しかし、近世以前の北海道ではコメは栽培していなかったため、成立当初の松前藩は、蝦夷地のアイヌとの交易による利益で藩財政を支えていました。それが、やがて交易から商人による漁業経営の方法が、商場知行制(あきないばちぎょうせい)と場所請負制(ばしょうけおいせい)の二つの制度です。

アイヌ首長による松前城下の訪問

 当時の松前藩は、徳川家康の黒印状によって、蝦夷地でのアイヌとの交易独占権を承認されていました。松前藩成立直後の元和年間(1615〜1624年)には、アイヌが松前に交易品である蝦夷地産物を持参し、松前城下で交易が行われていました。アイヌの人々は交易のために、夏になると北は天塩国付近、東はメナシ(根室)付近から何日もかけて松前城下を訪れていたといいます。

 この時代の交易は、アイヌ首長が松前藩主に「御目見え」する際に産物を藩主に差し上げ、その返礼・土産として、藩主は蝦夷地にはない品物を与えられていました。また、松前城下付近では、アイヌと和人が雑居する状態であったと考えられています。

和人地、蝦夷地の分離が生んだ「商場知行制」

 しかし、幕府巡見使が1633(寛永10)年に松前を初めて監察し、松前藩は藩の領地を明確にする必要にせまられます。そこで、和人地と蝦夷地を分けることになり、和人地には和人を、蝦夷地にはアイヌを分離する政策に転じます。こうした過程で作り出されたのが「商場知行制」だと考えられています。

 商場知行制とは、松前藩主が上級家臣に一定の地域を知行(ちぎょう)(商場での交易権)をとして与え、そこで上がったアイヌ交易の収益を家臣の収入とする仕組みのことです。上級家臣たちは、その交易のために各自の交易場所である商場に商船を派遣します。当初、商場は交易拠点そのものを指していましたが、次第に交易領域を指すように変化していったようです。また、商船の派遣は、1商場につき夏船1艘が原則でした。

この時、蝦夷地の61カ所に商場があり、商場では主に以下のような交易品が扱われていました。

アイヌ側の交易品:干しサケ、ニシン、コンブ、串貝、オットセイ、魚油、クマ皮、シカ皮、タカ、蝦夷錦、ラッコ毛皮など

松前側の交易品:コメ、麹、酒、古着、布、糸、鍋、椀、塩、タバコ、キセルなど

場所請負制の発達が生んだアイヌとの軋轢

 元禄期(1688〜1703年)になると松前藩の財政は悪化、商場の経営に変化が現れます。享保期(1716〜1735年)には、商場を共同で経営する家臣や、、運上金(課税の一種)を取って商人に経営を委ねるものも現れるようになります。「商場知行制」が始まってから約100年です。このように商場の経営を商人に任せ、運上金を収めさせる方法を「場所請負制」と呼びます。同時に場所を請け負った商人は、マス船、秋味船、ナマコ引船などによる漁も請け負い、各場所で漁業を行うようになっていきます。このように、蝦夷地で漁業が盛んになった背景には、本州で商品作物の生産が急増し、魚肥の需要が高まっていた事情があります。

 こうした場所請負制の発達により、場所ごとに拠点をつくるように なります。これを運上屋(運上家)といいます。各場所には支配人・通辞・帳役の3役と番人を置いて管轄し、土地のアイヌを労働力として使役していました。蝦夷地にはこうした 運上屋が80箇所以上設置されたとされています。しかし、請負商人側とアイヌ側は対等な関係ではなく、アイヌが一方的に低賃金で働かされたのが現実でした。こうした矛盾が後の「クナシリ・メナシアイヌの戦い」へと繋がっていくのです。

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