蝦夷地最大の壮絶な戦闘「シャクシャインの戦い」

歴史
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 歴史上のアイヌ民族で最も有名な人物といえば、シャクシャインでしょう。その名は中学校の教科書にも登場し、高校日本史ではほとんどの教科書に掲載されているほどです。そのシャクシャインをリーダーにアイヌが蜂起したのが「シャクシャインの戦い」です。

アイヌ対松前藩の雌雄を決する戦い

 商場知行制によって松前藩主とその家臣としか交易ができなくなったアイヌは、独占的な交易の仕組みを作った松前藩に、交易の主導権を握られてしまったこと、和人の砂金採取場や鷹場の設置によって、アイヌの狩猟、漁猟の場所が狭められてしまったことなどを理由に不満を募らせていきます。

シャクシャインの進撃

 1669(寛文9)年6月、シベチャリ(新ひだか町静内)のアイヌの首長シャクシャインは、東西蝦夷地の各地域で暮らすアイヌ集団に檄を飛ばし、松前藩に対して一斉蜂起します。これが「シャクシャインの戦い」の始まりです。東蝦夷地のホロベツ(登別市)からシラヌカ(白糠町)にかけての8カ所、西蝦夷地のウタスツ(古平町)からマシケ(増毛町)にかけての和人を襲撃。蜂起に参加した2,000人のアイヌが和人355人(273人という記録もある)を殺害し、さらに松前に向けて進撃します。

 アイヌの蜂起の知らせを受けた松前藩は、金採取場やはんの関所があるクンヌイ(長万部町国縫)まで家臣を派遣して情報収集し、幕府や弘前藩に報告します。すぐさま幕府は、松前氏の一族で旗本の松前八左衛門泰広(まつまえはちざえもんやすひろ)や弘前藩に出陣を命じ、盛岡藩、秋田藩には、要請があり次第出兵するように命じます。

 一方、松前城下では、逃げ支度するものや船で脱走をはかろうとする者が相次ぎ、松前藩は城下近辺に柵を巡らせて警戒にあたりました。同時に、東北の諸藩に鉄砲や大砲、弾薬の援助を要請し、多数の武器・弾薬が集められました。

 同じ年の7月、松前藩は蠣崎蔵人(かきざきくらんど)を隊長にクンヌイへ兵を派遣し、柵を設けるなどして戦いに備えます。8月になって、550人の兵をクンヌイの北に位置するオシャマンベ(長万部町)に進めたところ、山中に隠れたアイヌ軍が毒矢を放ってきたため、クンヌイまで退去せざるを得なくなります。ほどなくして、松前泰広の軍がクンヌイで松前軍本隊と合流。総勢628人となった幕府・松前軍は、クンヌイから東蝦夷地へ向けて兵を進め、9月には弘前軍も松前城下に到着します。

 その後、幕府・松前軍は鉄砲中心の戦術から、アイヌ軍を分断する作戦に転じます。松前藩と関係の深いアイヌを脅迫し、降伏するよう命じる作戦は的中し、幸福するアイヌが続出します。アイヌ軍の統制は乱れ、シャクシャイン軍は次第に追い詰められますが、徹底抗戦の構えは崩れませんでした。

戦いの終結

 事態の長期化を恐れた松前藩は、幕府・松前軍の陣をピポク(新冠町)へ進め、10月、シャクシャインに偽りの和睦を申し入れます。一旦は拒否したシャクシャインでしたが、アイヌ軍の劣勢を考えてこれに応じてしまいます。その差語句の縁にシャクシャインらを招いた幕府・松前軍は、シャクシャインが酔ったところを見計らって殺害します。

 結局、だまし討ちで指導者を失ったアイヌは、松前藩に鎮圧されてしまったのです。アイヌの人たちを率いたシャクシャインは、アイヌの誇りとされ、現在ではシャクシャインの像と共に「シャクシャイン記念館」ができています。

322_シャクシャイン記念館 | 日高振興局産業振興部商工労働観光課

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